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第10回津島 満月ミーティング記念冊子より
Rider対談 河崎裕之×水谷勝×大倉正之助

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〜津島とオートバイの縁〜
大倉 津島では、大正時代末にすでにオートバイのレースが行われていたそうですね。津島神社は戦国時代、信長や秀吉など武士達の守り神として崇められた。何かその流れに、縁を感じます。奇しくもお二人にとっては、レースを始められたご縁のある場所だとか。
水谷 オレはもともと地元だから。初レースとして津島の天王川ダートレースに出場したのが、レースを始めるきっかけになりました。
河崎 僕は確か昭和40年、20歳の頃、YBS1というバイクを自分で改造して津島のダートレースに出た。レース自体は、もっと早くからやっていたけどね。津島のレースは、確か秋祭りと一緒にやっていたんだと思う。
水谷 そうそう、競馬をやっていた延長線でやっていたんだと思う。
河崎 地方では村の祭りで競馬をやっていたけれど、それがダートレースだったということだけで出場したんだ。確かクラスは50ccと80cc、125ccと250cc。すべて出てけどね。変なクラスがあって、浜松のオートレースに出ているプロの連中3人ぐらいと混走するのがあった。
大倉 その時のレース結果はどうだったんですか?
河崎 50ccはトップを走っていたけど、エンジンが焼きついてリタイア。80ccは3位か4位だったと思う。125ccは、スタート直後にチェーンが外れて終わった思い出があるなぁ。全部のクラスに出たけれど、結局、全滅(笑)
水谷 その年、オレは7番か8番手で、結局予選落ちになってね。敗者復活戦になったんだけど、敗者復活戦があることを知らなくてとぼとぼ歩いていたら、その敗者復活戦にオレの替わりに兄貴が走っていた(笑)。
大倉 次の年はどうでした?
水谷 次の年も出ようと思ったけど、天王川ダートレース自体がその年で無くなってしまった。
大倉 ではその最後の津島・天王川ダートレースに、お二人とも参加していたわけですね。
河崎・水谷 そうだねぇ。
河崎 つい最近まで、浅間火山レースや富士登山レースが一番古いと思っていたけれど、堀田新五郎商店さんでビデオを見せてもらってね。当時、賞金も凄かったらしい。
大倉 浅間のレースが始まったのは、確か戦後ですよね。津島の人々は奥ゆかしいのか、そんな昔からレースが行われていたことも、ほとんど知られていないですよね。津島神社も由緒ある神社なのに、僕も堀田さんのところへ行き出して初めて存在を知ったぐらいです。ところでお二人のバイクとの出会いは?
河崎 中学生時代にバイクで学校に通う人がいて、クラスメートに借りてモトクロスのまねごとを庄内川の河原でやっていたんです。はじめは50ccスズキのセルペットでした。鈴鹿サーキットは1962年にオープンしましたが、当時、今の鈴鹿9番ゲートを入ったあたりは山で、そこがモトクロス場でした。16歳〜17歳の間だったと思います。そのうち名古屋スズキのディーラーが、レースに出るならバイクを貸してやると言ってくださったんですが、仕事したいから辞めると言ったところ、それならばとスズキが仕事として契約ライダーにしてくれました
大倉 その頃から、契約ライダーっていたんですね。水谷さんの方はいかがですか?
水谷 14歳の頃かな。中学校の時、通学の足がないから免許を取って。もうその頃から「誰よりも速く」ということを意識していた。CB72 Type氓フエンジンを、Typeに乗せ換えたりしていたんだ。それで天王川のダートレースに初レースとして参加するんだけど、あの時はカワサキのA7だった。木でシートを造ったけれど、あまりよくなくて、結局座布団敷いて走った。
河崎 昔は皆、バイク乗りは工夫して走りましたよね。
大倉 そうですよね。今は、何でもありますから。
河崎 僕は、1976年全日本のロードレースに水谷が出てきたことを、鮮明に覚えている。めちゃくちゃだったもの(笑)。 破天荒というか、荒々しさというか、エネルギッシュで面白かったですよ。
水谷 アハハハハ。
大倉 逆に水谷さんから見て河崎さんは、どうだったんですか?
水谷 すでにもう、スズキのワークストップライダーで。話をするというより、職人気質というか近寄りがたい。怖かったですよ。当時はコーナーリングとかも、ここがどうこうと教えるのではなく、見て覚えろ、見て盗めという世界でしたからね(笑)。
大倉 我々、能楽の世界と一緒ですね。
河崎 やはり、自分が上達したい。速くなりたいという意志がなければ先が無いんですね。
オートバイは武士道に通じる
大倉 津島神社で満月ミーティングを行っている意味は、一般の人々にバイクについてもっと考えるきっかけになって欲しいからです。精神的な部分はもちろんですが、他のライダー自身も、バイクというのは奥が深いと感じ、さらに極めていけば武士道にも繋がる。T道″とか精神的な強さを、日本のライダーに率先して感じてもらいたいと考えています。
河崎 大倉さんが行う出陣式(レース本番直前に行う武運長久を祈る奉納)。あれは、レースに出る人間からすると、Tいざ行くぞ″と襟を正すことだと思います。
大倉 そうですね。後には、引けない覚悟ですね。
河崎 のライダーで例えると、モトGPライダーのバレンティノ・ロッシに、そういう姿勢を強く感じますね。彼はスタート前に、肩や身体全体で息をしてプレッシャーを整えている。集中しているんだね。その後、「さぁ行こうか!」という感じで行くわけなんだよ
大倉 騎士道的な集中力、精神性を備えているんでしょうね。
例えば宇宙飛行士が宇宙と実際対峙した時、未知なるものに遭遇するというじゃないですか。人智を超えた存在のような者と言えばいいのでしょうか。過酷なレースを続ける中で、神様に助けられたというか、守られたというか、バイクに乗っている最中に感じることはありましたか? ちなみに私なんか普段、日常のようにありまして(笑)。
河崎 僕は鈴鹿最終コーナーで飛んでしまって、足の骨折と全身打撲の大怪我をしたことがあります。10ヶ月間寝かされた状態でした。事故を起こした時は あぁ死ぬんだなぁって思っていた。もしあの時、入院して4、5ヶ月で直っていたら、レースそのものを辞めていたかもしれない。10ヶ月という長い時間、寝ていたからこそ、走りたくなっていたんだと思う。その年の全日本の最終戦はコルセットをして走りましたが、その時から必ずヘルメットの中にお守りを入れていくようになりました。
水谷 オレは国府宮(こうのみや)の裸祭に毎年参加している。ある時なんて、レース用の革ツナギを着たまま参加したこともある。不思議なことに、82年、祭りの神男にふれたら、全日本ロードレース選手権でを7戦全勝連勝したんだ(国内最高峰500ccクラスで参戦レース全勝。未だこの記録を破った選手はいない)。
大倉さんに津島神社に誘ってもらうようになってから、不思議とレースの事で、良い話が色々と転がってくるんだよね。
大倉 ライダーと繋がりが深い津島神社とのご縁からか、鈴鹿8時間耐久レースの奉納を2年連続やらせて頂いていますが、重大な事故が発生していない。転倒してもすくっと立ち上がってまた再開している。完走率がむしろ上がっているという有難いご報告を、鈴鹿サーキットの方から頂いています。若いうちは勢いだけで突っ走れた部分が多々ありますが、この年になったからこそ感じられるようになったことが
あると思うんです。お二人は、そのように感じることはありますか?
水谷 冷静に自分を見ることが出来るようになったし、若い時よりもっと自分を環境に合わせる方法を見つける事が出来るようになったと思う。
河崎 が前後して申し訳ないけど、現在の日本のライダー全体のレベルを上げるには、ダートレースが必要ではないかと思う。ある程度危険を伴わないと、レベルが上がってこない。危険と隣り合わせだと、緊張感をもって乗りこなす意志が必要になってくる。これが大切なんだって、強く思うようになった。それはそうと、水谷は今でも現役で走っている。ある意味 羨ましいんだ。何が羨ましいかというと、彼を支えてくれている環境かあるわけだから。水谷の人徳だよね。
水谷 は、ファンが喜んでくれるから、今でも走ろうと思うし、走らなきゃと思う。
今は、ワークスライダーではないから、トップでゴールする責任がない分、気持ちは楽。今でも良いマシンがあれば、トップの連中と同じように走りたいと思うし、もっと速く走れるイメージが湧いて来るね。
大倉さんに対して思うのは、毎月毎月、東京から津島まで来るわけでしょう。その強い意志というものには本当に尊敬を抱きますね。
大倉 ご縁でしょうね。私の大鼓の皮を作って下さっているのが堀田新五郎商店さんとの出会いがなければ、このようなご縁は生まれなかったかもしれません。
河崎 大倉さんには、鼓の世界とオートバイの世界を、ぜひとも広めて頂きたい。
大倉 いいタイミングで出会ったと思います。機が熟したというか。日本の歴史上でも津島は大切で、それこそ信長、秀吉、徳川歴代の将軍を支えて来た訳ですよね。バイクの世界で影となって支えてきた方たちとより力を合わせて、ムーブメントにしていきたいですね。
河崎 春の津島神社の満月ミーティングに行ったけど、あれは最高だね。V‐MAX(ヤマハ発動機製1200ccのオートバイ)の周りにかがり火を焚いて、その後ろに夜桜が咲いている。日本人としてたまらない世界だね。
大倉 津島神社で行われている満月ミーティングは、決してローカルな催しじゃなく、
ある意味でヨーロッパの騎士道にも通じる日本特有の世界である。オートバイが武士道であることを全世界に対して文化発信している催しなんだということを、もっと多くの方々に理解して欲しいし、もっと広めたい。そしてもっと盛り立てていき、日本のオートバイ文化の確立を目指したいのです。今日は、お忙しい中、ありがとうございました。

 


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