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FZ400Rフォトグラフの管理人MORIさんの御尽力でMATさんが撮影した写真をご提供頂きましたので公開します。
MATさん、MORIさん、ありがとうございます。

また、Shineさん、てつGさんからも、写真の御提供を頂きました。
心より、御礼申し上げます。

76年プログラム 78年プログラム
1975年、モトクロスからロードへ転向。東海スポーツライダースからTZ250でエントリー。
ジュニア250ccクラスでチャンピオンを獲得。
1976年、エキスパートに昇格。350ccに転向。
1977年、350ccに加え、750ccも参戦。エキスパート350ccクラスランキング5位。
79年プログラム
実家の土建会社が倒産。水谷には、750ccのバイクしか残らなかった。
「プロになって、食わせる」という目標ができた。そして、レースに勝てなかったら、帰りの交通費もないという状態で、友のカンパによって支えられながら戦い、全日本選手権750ccクラス チャンピオンを獲得する。
80年プログラム
ヤマハから、遠征費とパーツ費の援助を受けることができ、少しはプロらしくなった歳。
しかし、チーム体制はプライベートのまま。燃料タンクの容量ミスで、ガス欠になりV2を逃す。
全日本選手権750ccクラス 2位でシーズンを終える。
そして、この歳にスズキワークスの総支配人の横内氏と出会う。
81年プログラム

横内氏のスカウトで、スズキ営業契約。 500ccにエントリー。
全日本選手権500ccクラス 5位

82年プログラム
スズキ準ワークスライダーとなる。
RGB500で参戦。破竹の7戦 全勝で、全日本選手権500ccクラス チャンピオンを獲得。
 晴れてスズキのワークスライダーとなる。
RG-γ500 ゼッケン1をつけ、参戦するも、第二戦 筑波で転倒しヒザを骨折し3ヶ月の休養。
全日本選手権500ccクラス 7位
 スズキがワークスから撤退。しかし、ワークスが復活するためにと、プライベートで参戦する。
「TEAM MIIプロジェクト」を発足。チャンピオンを獲得した時のメカニックである、長野靖治氏と二人三脚のレース活動がはじまる。トランポは自費購入。マシンとパーツはスズキからの協力は得られたが、スポンサーの手配から宿の手配。長野氏の給料の心配と、買って賞金を獲得する必要があった。全日本選手権500ccクラス 4位
 スズキの計らいによって、ウォルターウルフカラーのマシンが与えられた。
しかし、プライベート体制はそのままである(準ワークス)。
83年型のγはYZRに20ps以上の馬力差がある。
新たに、岡本満氏が面倒をみてくれることになり、メカが不足の10psを。ライダーが不足の10psを合い言葉にし、勇猛果敢にワークスの最新マシンと戦った。
そして、全日本選手権500ccクラス 2位を獲得する。
 この年、念願の世界GPへスポット参戦を果たす。水谷は、どうせ走るなら難しいサーキットをと言うことで、オランダのアッセンとベルキーGPに出場。
全日本選手権500ccクラス 3位
 スズキがRGV-γを導入し、ワークスが復活。水谷はエースライダーとして。開発ライダーとして、よちよち歩きのニューマシンを走らせる。
そんなニューマシンに気合いで優勝を獲得させた。
全日本選手権500ccクラス 5位 (ウォルターウルフカラー最後の年)
 辻本聡氏、樋渡治氏の二人がワークス入りし、世代交代を考えさせた。
そして、この年、引退を決意する。
「水谷のスピリットがシュワンツの世界チャンピオンに繋がった。水谷には本当に感謝している」横内氏 談。
全日本選手権500ccクラス 4位
 
スズキ創立80周年記念チームとして参戦。
Team SURF JAJAから参戦。
TEAM MIIRを発足。
プライベートチームとして、8耐に参戦を開始する。
TEAM MIIRとして、2年目を迎える。
8耐ではJSBクラス、8位となる。
TEAM MIIRとして、3年目を迎える。

水谷の写真を撮影してお持ちの方で、ホームページで使用可能という方は、
是非資料としてお送りください。
まずは、BBSにて。

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